

| 大和郡山の西北に聳える郡山城は天正7年頃筒井順慶が築城を始めし事が古い記録に見える。豊臣秀長が天正12年入部後築城が本格的に行われ二代秀保を経て次の城主増田長盛の次代に完成したその間実に20年を要したとある。店祖菊屋治兵衛は当時の城主の御用菓子司として郡山城大手門の入口なる現在の地に店舗を構えお菓子を造り始める。城主大和大納言秀長公が関白秀吉公を城中に招かれ豪華なる茶会を催される節御菓子司なる菊屋治兵衛を「何か珍菓を造れ」との仰せを畏み辛苦考案の末餅菓子を造り献上せし処関白殊の外なる満悦にて「以来この餅を鶯餅と名付けよ」との仰せに治兵衛一代の面目とこれより名物鶯餅として売出しぬ爾来四百年の歳月を閤するに店舗の構え城の入口なるが為めいつの頃よりとなく人々呼んで城の口餅と名が変わり庶民の口に親しまれ名物に美味いものなしと世に云えど城之口餅だけは里のわらべにも懐かしがられ里歌にも(大和に伝わる古い子守歌)歌われ大和の名物として今日至る。往時の繁昌の様を父祖の口伝えによれば‥‥道中筋なれば旅人の往来繁く太閣名付の餅の名声高ければ店頭常に人垣を作りしと伝えられる。当時から旅人に渋茶をふるまいし茶釜は今も店先に飾りて往時を偲ぶにふさわしく家宝として丁重に保存している。歳月の流れと共にお菓子造りも磨きに磨かれし伝統の風味は和菓子最高のものとの賛辞を賜り現在に至る。由来にご高覧を頂くかづかづの銘菓は御贈答用御接待用としてせいぜい御利用御引立の程をとなお欲張るは二十五代菊屋のあるじ |